innate8の日記

大海を泳ぐ

美術館、地方、下層部

 いろいろなことが台風のように押し寄せて去っていった。そんな一年間だった。悪かった、と言ってしまえば結局のところ、得るもののなかった不毛な月日になってしまう。だからあえてグレーゾーンとしたい。悪いことも有ったし、良いことも有った。悪いことはなかったけれど、良いこともなかった。そんなところだ。ニュートラルな位置から見ることで、得られることの幅を増やす。それでいいと思う。

 最近ちょくちょく美術館に行く。美術館と言っても、都内にある大規模なものではなくて、県や市、はたまた個人や財団法人みたいなところが運営しているこじんまりとしたものが多い。

 昔から美術館という空間が好きだった。その空間が持つ静謐さと、異質さ。展示室に入ると、地続きだった外の世界が分断され、作品が持つ生気が支配する空間となる。あの感覚が好きだ。そして、何かしらの余韻が心に残る。その感覚も好きだ。

 地方について考える。こっちは都会に比べると圧倒的に娯楽が少ないし、人口も少ない。そして、自分の周りだけかもしれないけれど、知識人があまりいない。周りの人たちはライトな娯楽やメディアに踊らされている、そんな感じがする。今の職場では自分の話は極力しないようにしている。聞かれれば答える、というスタンスを取っているのだけれど、図書館や美術館によく行くとか山に登るとか神社仏閣を巡ったりする、と自分の情報を発信したら変人扱いされたのだった。これだから地方は、とあまり地方の悪口は言いたくないので、ただ単純に自分の周りだけの限定的な話にしておこう。

 まあ、ひとつ確かに感じることは「多様性の排除と排他的感覚」が強いということだ。地方でノホホーンと生きるのにもそれなりの下準備が必要なのかもしれない。自分を社会に合わせる、迎合する心ってやつが。

 とりあえず、僕は底が見える最下層でなんとかしがみついている。一時は持病が悪化してキツい時期もあったが、少しづつだけど上向いてきている。一歩一歩階段を登るだけという行為すら難しい時代になってしまったが、それでも歩みを止めてはいけないんだと思う。別に多くは望まないから、もっと今まで普通だと思っていた会話ができるような空間に身を置きたいし、一緒に美術館行くような友人が欲しいなあ、と思った今日この頃。

 うん、転職します。

サザンクロス

 まだ春が来ていない頃に花を買った。鉢植えの、元気がない花だった。寒空の下に無造作に置かれ投げ売りされていて(200円也)、針のような細長い葉は所々茶色く変色してしおれていた。なぜ、その花を買おうと思ったのか自分でもわからない。ただ、花屋の前を通り過ぎる時に、まばらながら冴えないピンク色の小さな花を付けた『それ』が妙に気になったのだ。
 春を通り越した季節は、どんどん陽光を強めている。ふと、玄関先の『それ』を見ると、可憐で鮮やかなピンク色の星をいくつも纏っていた。

 その花は、『サザンクロス』というらしい。星のような小さな五つの花弁をつける。花言葉は「願いを叶えて」「まだ見ぬ君へ」「光輝」。

 まだ夏は来ていない。今日、セミが鳴き出したが本格的な夏が来るにはもう少し先みたいだ。願いを叶えて、まだ見ぬ君へ。うん、悪くない。全然悪くない。ここからは南十字星は確認できない。でも、確実に存在しているし、いつだって見に行くことだってできる。

僕の青春の終わり

 そもそも、青春の定義ってなんだろうか?
 手元の、とある国語辞典を引いてみると次のように書いてある。

  若い時代。  

 何だかあっさりしている。
 もう少し詳しく書く(括弧書きで小さく書いてある)と、アグレッシブで希望に満ちた10代から20代の頃を指しているようだ、一般的には。しかし、たとえ50代だろうが70代であろうが、己自身が青春だと感じることができれば、それは紛れもない「青春」なのだろう。つまり、自分の中の捉え方や感覚の問題だということになる。ということは、逆のことも正なのだ。どんなに若くとも、自らが青春だと認めなければ、それは青春ではい。

 僕はといえば、青春はあった気もするし、なかった気もする。野苺のように甘酸っぱく粗野で、檸檬のように爽やかで快活な、絵に描いたような青春なんてなかった。むしろ、暗く険しい森をひたすら歩くような辛いものだった。だけど、きっとその先には開けた場所が存在していて、明るい太陽が照らしてくれると思っていた。結局、太陽は現れなかった。というか、森や太陽という象徴が消滅していた。そうか、元からそこには何も存在していなかった。きっと何かしらの幻の類だったのだろう、と結論付けた。きっと青春なんてなかったのだ。

  *****

 話はがらりと変わるが、先日近所の本屋が廃業した。
 小さい頃、毎週のように通い詰めた本屋だった。こじんまりとした、いかにも「街の本屋さん」といった感じの佇まいで、昔は賑わっていた。そう、昔は。店を閉めてしまう前に、数年ぶりに本屋に足を運んだ。あの頃はその本屋に訪れるたびに、まるで世界の一片を垣間見ているようであったが、そんな気がしていた幼かった僕はもういなかった。大人になった僕が改めて店内を見渡すと、悲しくなるくらい狭く、そして低くくすんだ天井に、豊富とは言えない書籍が所在なさげに陳列されているだけだった。 僕は大人になり、現実を見るようになった。そういうことだ。
 でも、記憶は一気に遡上してきた。当時、仲の良かった友達と塾帰りに参考書を眺めた中学時代や科学の図鑑を立ち読みしたり最新刊の漫画を買って回し読みした小学生時代。たくさんの漫画や雑誌や書籍を買ったり、駐輪場でジュースを飲みながら雑談し、夢や将来を語り合った、あの時。何もかもが輝いて見え、希望や夢に溢れていた。それも両手じゃ抱えきれないくらい。何にでもなれる気がしていた。そうか、きっと、これが青春なのだ。何だ、僕にだって青春はちゃんとあったじゃないか。

 本屋の看板は降ろされ、店内の明かりは永遠の眠りに沈んだ。後には、がらんどうの建物と自販機が撤去された痕がしつこく残った駐車場があるだけだった。本屋の閉店と同時に、自分の中にあった「青春」も静かに終わりを迎えた気がする。おそらく、あの頃の輝きは永遠に戻らないし、僕の記憶を呼び起こしてくれるキイも失った。

 たとえ青春を失っても、我々は生きていかなければならないし、容易に生きていける生き物なのだ。なんて残酷なのだろう。だが、それが大人になり地に足をつけるということであるのは間違いない。僕は青春を食いつぶしてここまで歩いてきた。それは僕の生きるエネルギーになってくれたのだ。きっと、人は自分の意思で輝きを取り戻すことは出来るが、僕にはできそうにない。だから、黙って歩くしかないのだ。ちゃんと前を向いて。