innate8の日記

大海を泳ぐ

僕の青春の終わり

 そもそも、青春の定義ってなんだろうか?
 手元の、とある国語辞典を引いてみると次のように書いてある。

  若い時代。  

 何だかあっさりしている。
 もう少し詳しく書く(括弧書きで小さく書いてある)と、アグレッシブで希望に満ちた10代から20代の頃を指しているようだ、一般的には。しかし、たとえ50代だろうが70代であろうが、己自身が青春だと感じることができれば、それは紛れもない「青春」なのだろう。つまり、自分の中の捉え方や感覚の問題だということになる。ということは、逆のことも正なのだ。どんなに若くとも、自らが青春だと認めなければ、それは青春ではい。

 僕はといえば、青春はあった気もするし、なかった気もする。野苺のように甘酸っぱく粗野で、檸檬のように爽やかで快活な、絵に描いたような青春なんてなかった。むしろ、暗く険しい森をひたすら歩くような辛いものだった。だけど、きっとその先には開けた場所が存在していて、明るい太陽が照らしてくれると思っていた。結局、太陽は現れなかった。というか、森や太陽という象徴が消滅していた。そうか、元からそこには何も存在していなかった。きっと何かしらの幻の類だったのだろう、と結論付けた。きっと青春なんてなかったのだ。

  *****

 話はがらりと変わるが、先日近所の本屋が廃業した。
 小さい頃、毎週のように通い詰めた本屋だった。こじんまりとした、いかにも「街の本屋さん」といった感じの佇まいで、昔は賑わっていた。そう、昔は。店を閉めてしまう前に、数年ぶりに本屋に足を運んだ。あの頃はその本屋に訪れるたびに、まるで世界の一片を垣間見ているようであったが、そんな気がしていた幼かった僕はもういなかった。大人になった僕が改めて店内を見渡すと、悲しくなるくらい狭く、そして低くくすんだ天井に、豊富とは言えない書籍が所在なさげに陳列されているだけだった。 僕は大人になり、現実を見るようになった。そういうことだ。
 でも、記憶は一気に遡上してきた。当時、仲の良かった友達と塾帰りに参考書を眺めた中学時代や科学の図鑑を立ち読みしたり最新刊の漫画を買って回し読みした小学生時代。たくさんの漫画や雑誌や書籍を買ったり、駐輪場でジュースを飲みながら雑談し、夢や将来を語り合った、あの時。何もかもが輝いて見え、希望や夢に溢れていた。それも両手じゃ抱えきれないくらい。何にでもなれる気がしていた。そうか、きっと、これが青春なのだ。何だ、僕にだって青春はちゃんとあったじゃないか。

 本屋の看板は降ろされ、店内の明かりは永遠の眠りに沈んだ。後には、がらんどうの建物と自販機が撤去された痕がしつこく残った駐車場があるだけだった。本屋の閉店と同時に、自分の中にあった「青春」も静かに終わりを迎えた気がする。おそらく、あの頃の輝きは永遠に戻らないし、僕の記憶を呼び起こしてくれるキイも失った。

 たとえ青春を失っても、我々は生きていかなければならないし、容易に生きていける生き物なのだ。なんて残酷なのだろう。だが、それが大人になり地に足をつけるということであるのは間違いない。僕は青春を食いつぶしてここまで歩いてきた。それは僕の生きるエネルギーになってくれたのだ。きっと、人は自分の意思で輝きを取り戻すことは出来るが、僕にはできそうにない。だから、黙って歩くしかないのだ。ちゃんと前を向いて。